楽園/あーすこぐしょうこうぐん アースコグ症候群 名詞

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楽園/
あーすこぐしょうこうぐん アースコグ症候群 名詞









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エディルネ

エディルネは先史時代から人類が居住してきた非常に古い歴史をもつ町である。古代ローマ時代にはウスクダマ(Uskadama)あるいはオレスティス(Orestias)と呼ばれるトラキア人の町で、紀元前2世紀にローマに征服された。紀元125年、ローマ帝国の皇帝ハドリアヌスはバルカン支配の拠点としてこの町に目をつけ、四角の城壁に囲まれたローマ都市を整備してハドリアノポリス(ハドリアヌスの町)と命名した。この町の名として広く知られるアドリアノープルは、ハドリアノポリスの英語形である。

ゲルマン人がローマ帝国領内への南下を激しく行うようになるとこの町は帝都コンスタンティノポリス防衛の最前線となり、378年に行われたハドリアノポリスの戦いではウァレンス帝が西ゴート族に敗れて戦死した。その後もハドリアノポリスは東ローマ帝国の重要拠点であったが、6世紀にはアヴァール、10世紀にはブルガリア帝国の侵攻を受けるなど、たびたび戦乱にさらされた。1204年には第四回十字軍によって占領され、西欧人の手に落ちる。その後、東ローマ帝国が奪還するものの、1362年頃にオスマン帝国のムラト1世によって征服された。

エディルネはオスマン帝国にとってもバルカン征服の前進拠点であるソフィアやベオグラードに繋がる幹線道路の通り道であったことから政治的・経済的・軍事的に重要視され、ムラト1世は征服からまもなく1365年にこの町に宮殿を築いて帝国の首都とした。オスマン帝国は旧来の手狭な市壁を越えて市街地を拡張し、モスクやキャラバンサライなどイスラム都市としてのインフラ整備を行ってムスリム(イスラム教徒)の移住を促進した。その結果、オスマン帝国下のエディルネでは旧来の主要な住民であるブルガリア人に加えてトルコ人人口が増加し、数多くのモスクが建設されるようになる。





楽園


嵯峨天皇 兄・平城天皇の即位に伴って皇太弟に立てられる。だが、平城天皇には既に高岳・阿保の両親王がいたことから、皇太弟擁立の背景には、父帝・桓武天皇の意向が働いたといわれている。 このような事情から即位後に甥にあたる高岳親王を皇太子としたが、翌弘仁元年(810年)に平城天皇が復位を試みた「薬子の変」が発生する。この結果、高岳親王は廃されるが、実子を立てる事に気まずさを感じたためか今度はかねてから臣籍降下を望んでいた異母弟の大伴親王(淳和天皇)を強引に皇太弟に立ててしまった(これが承和の変の遠因となる)。 ともあれ、以後表面上は平穏な治世を送り宮廷の文化が盛んな時期(弘仁文化)を過ごした。弘仁9年(818年)、弘仁格を発布して死刑を廃止した。中央政界における死刑の廃止は以後保元の乱まで347年間続く。だが、当時は農業生産が極度の不振(『日本後紀』によれば、弘仁8年(817年)より7年連続で干害などの被害を受けたとされている)にあり、その結果として当時財政難は深刻であった。また、最末期には墾田永年私財法の改正などを行って大土地所有の制限を緩和して荒田開発を進め、公営田・勅旨田の設置などが行われている。 皇子皇女多数おり、その生活費も財政圧迫の原因となった。そこで皇族の整理を行い、多数に姓を賜り臣籍降下させた(源氏の成立)。嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものとその子孫を嵯峨源氏という。河原左大臣源融は嵯峨天皇の皇子の一人。 弘仁14年(823年)、財政上の問題を理由(上皇が2人(平城・嵯峨)では財政負担が大きい)に反対する藤原冬嗣の主張を押し切って大伴親王に譲位した。退位後は冷然院・嵯峨院を造営して財政を逼迫させただけでなく、実子正良親王(仁明天皇)が即位すると「皇室の長」として政治に干渉する場面も多くなり、更に淳和上皇や仁明天皇の反対を押し切って自分の外孫でもある淳和上皇の皇子恒貞親王を皇太子とするなど、朝廷内で絶大な権力を振るって後に様々な火種を残した。 漢詩、書をよくし、三筆の一人に数えられる。また、華道嵯峨御流の開祖とも伝わっている。